最近電柱の数は減ってるのだろうか。
小さい頃、登下校の道にはいくつもの電柱が当然のように立っていた。
当時は気にも止めていなかったけどそこには確実に電柱が立っていた。
みんなでじゃんけんをして負けた人がみんなのランドセルを持って次の電柱まで歩いた。
昔誰もがやったあの遊びだ。
そこでまたじゃんけんして負けた人が次の電柱までみんなのランドセルを運ぶ。
今思い返せばその距離はどれくらいだったのだろうか。
大人になって通学路を通ってみると全てがミニチュアのように感じたのでそんなに長い距離ではなかったのだろう。
それでも遠いだの近いだの騒ぎながら電柱ごとにじゃんけん大会が開かれた。
大嫌いなマラソン大会では「次の電柱まで走ったら歩こう」そう言い聞かせながら走った。
電柱まで行くと「次の電柱まで行けるかも」と、さらに次の電柱まで頑張った。
俺が行くんじゃなくて、電柱!お前が来いよ!と修羅の形相で走った。
電柱は一度も来てはくれなかった。
その繰り返しで休むことなくなんとかゴールまで走れた。
最後まで走れたのは電柱のおかげです・・・なんて言うつもりはない。
やっぱり電柱!お前が来るべきだった。
かくれんぼでは、鬼は電柱に顔を伏せ数を数えた。
別に壁でもいいのだが当たり前のように電柱を使った。
範囲の広い壁よりも点として存在する電柱は何をするにも便利な存在だった。
意味もなく蹴ったりしてスマン・・・自分でもなんでかよくわからん・・・
とにかく硬く、何をしてもびくともしないお前に私の中の「男の子」の部分が触れたのだろう。
当時飼っていた犬の散歩では電柱のたびに立ち止まってなかなか進まなかった。
よくもまぁこうも電柱のたびに止まれるものだと幼心に感心した。
めんどくさいなと思いながらも、当時は屋外で音楽が聴けるという非日常を買いたてのWalkmanで満喫しながら電柱ごとに止まる散歩を楽しんだ。
いつもいつもアイツがオシッコをかけて悪かった。
ってかお前の足元いつも糞だらけじゃん。
大人になっても私の側にはいつも電柱は変わらずに立っている。
車での移動が増え、あまり接点はないがそれでも私の側に電柱は立っている。
1億円稼げと言われれば無理だと諦めるが、まずは1,000円なら自分の力で稼げそうだ。
2度とタバコを吸わないと思えば心折れそうだが、1週間ならやめれそうだ。
1,000記事書けと言われれば心折れるが、100記事なら頑張れそうだ。
これはまさに大嫌いだったマラソン大会の「電柱作戦」だ。
1,000円という次の電柱。1週間、100記事という「次の電柱」だ。
遠く、大きすぎる目標は現状との差に押しつぶされてしまう。
次の電柱まで、そしてその次の電柱まで、その繰り返しでふと気づけば今まで来た道のりよりも残りの道のりの方が近くなっている。
気が付けば次の電柱がゴールかもしれない。
次の電柱まで、その次の電柱まで・・・
そう念じながら家路につくも途中で盛大に吐いてしまい飲み会帰りには時折「電柱作戦」が通用しないスコプラなのでした。(∀`*ゞ)テヘッ